レインボーブリッジ

スケッチ

お台場

2003.10.29 秋日和、お台場にやって来た。
お台場ビーチ(人口砂浜)がなかなか良い。水着に着替えて泳ぎたいくらいだ。

レインボーブリッジの名は「虹の橋」の意味で、一般公募から決められた愛称で、正式名称は「東京港連絡橋」である。
東京都港区芝浦地区と港区台場地区および江東区有明を結ぶ吊り橋で、1993年8月26日開通。
全長800mの二階建て構造で、上部は首都高速11号台場線、下部は中央に新交通システム「ゆりかもめ」、その両側には一般道路と歩道が通っている。
慢性的な交通渋滞が発生していた箱崎ジャンクション・江戸崎ジャンクションや首都高速1号羽田線の渋滞緩和と共に、開発がすすめられていた東京都臨海副都心と既存都市部を結ぶために建設された。

江戸時代の品川台場(お台場) 

江戸時代、1853年(嘉永6年)ペリー艦艇が来て幕府に開国を迫った。
これに脅威を感じた幕府は老中阿部正弘の命で品川台場(お台場)を構築、洋式の海上砲台を建設させた。
ぺリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。

(2023.8.4  黒船)

アメリカ側の目的

当時アメリカは、清をはじめとする東アジアとの貿易のために太平洋航路を必要としていた。当時の蒸気船では十分な燃料を積み込むことはできず、補給のための寄港地として日本の港が必要であった。
水、食料についても補給が必要であり、特に、冷蔵庫もしっかりした保存食もない時代において、脚気や壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給が必要であった。
また、北太平洋での鯨油を目的とした捕鯨を行う上で、国交がない状態では漂着した自国(アメリカ)の捕鯨船員の引き渡しもままならず、不便であった。このような背景から、ペリーの来航目的には通商交渉も含まれてはいたものの無理な交渉は行わず、人身保護と補給を目的とした和親条約が締結されることとなった。下田と、函館が開港場に選ばれたのも、補給の利便性を重視したものであった。

(ペリー提督)

台場の防衛

完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)
、忍藩(第三台場)の3藩が担った。
この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけでなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。

参考資料
「レインボーブリッジ」2023.7.19(水)00:22 UTC『ウィキペディア日本語版』
「お台場」2023.6.25(日)21:10 UTC『ウィキペディア日本語版』
「ペリー来航」2023.7.25(火)03:37 UTC『ウィキペディア日本語版』

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