頼朝と義経
江ノ島電鉄(通称江ノ電)の腰越駅で降りた。腰越は源義経が兄頼朝の怒りを買って鎌倉入りを許されず当地に留められたことで知られる。その際、義経が頼朝に心中を訴える「腰越状」を送ったが許されることはなかった。
駅から徒歩5分行くと満福寺がある。
弁慶が書いた「腰越状」の下書きや弁慶の腰掛石、手玉石などのゆかりのものが展示してある。
ぼくは参拝と見学を済ませると腰越港に向かった。
江の島を背景に港の雰囲気が描ければと思ったのである。
うららかな日和で港では多くの釣り人が釣り糸を垂らしていた。

腰越状
絵を描き終わって「腰越状」について考えてみた。
頼朝は、義経が壇ノ浦で手柄を立てたことに嫉妬し、また、勝手に天皇から官位をもらったことに対しても腹をたてたのだろう。
血のつながりがありながら、何かをきっかけに、憎しみ合い理解し合えないことはよくある。
頼朝と義経それぞれの立場から、言い分はいろいろあろうが、兄弟膝を突き合わせて話し合えていたら結末は違っていたかも知れない。
組織の長として頼朝はケジメをつけるため、義経の鎌倉入りを許さなかった。
そして義経をとことん追いつめていった。
静御前
義経には静という愛妾がいた。お妾さんである。
静は吉野で義経と別れたあと、捕らえられ、頼朝に鶴岡八幡宮社の前で「白拍子の舞」を命じられた。
静は舞ながら義経を慕う歌を詠った。
白拍子の舞

しづやしづ しづの苧だまき くり返し 昔を今に なすよしもかな
(歌の意味)
苧だまきから糸がくるくる出てくるように たえず繰り返し しづしづと呼んでくださった義経様
手柄を立てた あの輝かしい昔を 今にする方法は ないものかしら
㊟苧だまき⇒つむいだ麻糸を円く巻きつけたもの。
頼朝は激怒したが妻の北条政子が「わたしが同じ立場なら同じようにうたいます」と取りなして、静の命を助けたとされる。
頼朝は義経を島流しにでもして、ほとぼりが冷め、ほとぼりがさめたら側近として呼び戻そう、とは考えなかったのであろうか。
義経は、結局頼朝の追手に追われ、奥州平泉で藤原泰衡に攻撃され自害したとされる。
子供の頃、紙芝居や童話の本で義経の手柄話を知ったが、京の五条の橋の上で弁慶を懲らしめ家来にした、あの格好良い義経が心の中で強く生きている。