ビールのジョッキ
隅田川の駒形橋にやってきた。駒形橋は雷門、浅草寺に近いし、橋を渡るとスカイツリーが目の前に迫って来る。子供の頃、スカイツリーの近くに住んでいたからこの辺は懐かしい。
駒形橋は台東区と墨田区にまたがる橋だが、浅草側の川辺に降りてみた。
穏やかな秋日和である。
右手に黄色い不思議な建物が見える。隣には金色のオブジェ。ナンダこりゃ?
調べてみたら、アサヒビール本社ビルだという。創業100年を記念し1989年(平成元年)11月に建てられたそうだ。金色の鏡面ガラスをビルの全面に貼りつけ、てっぺんのボコボコは泡で、なみなみ注がれた大ジョッキをイメージしているらしい。
金色のオブジェは、新世紀に向けて活躍する「アサヒビールの燃える心の炎」をシンボル化したもので「フラムドール=金の炎」というそうだ。
青色の駒形橋と、黄色の大ジョッキのマッチングが面白くて、ぼくは絵に描くことにした。

(2003年10月頃で、日時は不明)
青い駒形橋の下に、直ぐ向こうの赤い吾妻橋が見えた。
ぼくの好きな志ん生の落語にはいろいろ吾妻橋が出てくる。
吾妻橋
吉原通いがもとで親に勘当された「唐茄子屋(とうなすや)」の話は有名だ。
ちなみに唐茄子とはカボチャのことである。
吉原にどっぷりつかった若旦那は、金がなくなって吉原を追い出される。居候をしていた友達からも愛想をつかされて、死のうと吾妻橋から飛び降りようとしたとき、通りかかった親戚の八百屋のおじさんに助けられる。そして、「まじめに働け」と促され、翌日、慣れない唐茄子がたくさん入った天秤棒を担いでふらふらとだるま横丁を出て行く。だが、「とうなすやー!」の掛け声が出せず、田んぼだった田原町界隈で練習をする。苦労して練習する若旦那の様子が聞いていて面白い。その後、つまずいて、まき散らした唐茄子を町の有志が、吉原通いが過ぎて勘当になった若旦那に同情し、近所の人たちを呼び集めて買ってくれる。
そのあと、夫が行方不明で、貧しく子と暮らす婦人から唐茄子を売ってほしいと呼び止められるが、事情を聞いて、梅干し1個の弁当と稼いだ売上げ全部を夫人に渡してしまう、という人情味あふれる話である。
駒形堂
駒形橋の浅草側のたもとに、駒形堂という社(やしろ)がポツンと建っている。
この辺りは、昔、隅田川で漁をしていた兄弟が、網にかかった聖観世音菩薩(浅草寺のご本尊)を陸揚げした場所で、隅田川に棲む魚類への愛護の必要を感じ、生き物の守護仏「馬頭観音」を祀ってある。
江戸時代は、聖地である浅草寺の管内ということもあって駒形堂は人気があり多くの参拝者が押し掛けたという。
駒形の渡し
駒形橋は、1927年(昭和2年)に架けられたが、江戸時代には「駒形の渡し」という渡し舟があった。

いなせ(粋)なお兄さんたちがおめかしをして
駒形堂のすぐ近くには、赤い旗が目印の幟(のぼり)があって、白粉や紅を売る店があった。
いなせなお兄さんたちは、銭湯に入り身体をきれいにして、一張羅を着こんで、鼻歌混じりで渡し舟に乗った。まわりの景色や桜なんぞどうでもよい。船着き場に着くと、もっともらしく、駒形堂で参拝し、いそいそと隣の化粧品を売る店に入って、みやげの白粉(おしろい)や紅を買い、吉原のお馴染みさんに、怒涛の如く、まっしぐら、といわけだ。
ちなみに、吉原遊郭は、ぼくの高校卒業前の1958年(昭和53年)に売春禁止法の施行により廃止された。
ひやかしに、吉原遊郭をいちど見学してみたかった。