赤い月
定時制高校の帰り、江東区門前仲町の近くにレトロな喫茶店があった。ふらふら、と思いつきで入ったことを、ふと思い出した。たしか高3で18歳だった思う。そのころ家は貧しく、昼は銀座で働き、夜は夜学に通っていた。
喫茶店に入ったのは、その日は給料日でアパートに帰っても寝るだけ。
高校を卒業した後、夜間大学を受けてみようか、などの悩みを抱えていた最中でもあった。

甘く切ない恋の歌
客はぼく一人。飲みなれぬコーヒーを注文して一息ついたとき、静かだった店内に、聞きなれない音楽が聞こえてきた。
言葉は分からないが、甘く切ない恋の歌だということは、なんとなく感じた。
そしてぼくは次第にその曲にのめりこんでいった。
店主は気を利かせてくれたのか、ボリュームを上げてくれた。

何の曲か知りたくて、いてもたってもいられなくなり、ぼくはレコードプレーヤーの傍にいる店主に近づき曲名を尋ねた。
店主は笑って自分もこの曲が好きだといってレコードジャケットを渡してくれた。
リュシェンヌ・ドリール

曲名は「ルナ・ロッサ」直訳すると「赤い月」である。
歌手はシャンソン歌手のリュシェンヌ・ドリールだとわかった。
ジャケットの中の解説書に、フランス語の歌詞に和訳がついていたと記憶している。

ぼくは、他に客がいないことを良いことに店主に何度もリクエストした。
店主は嫌な顔ひとつせず、応じてくれた。
序奏→若い女性が、窓からこぼれる赤い月に向かって声をかけるところから歌が始まる。
仏訳機で、ぼく流に訳してみた
マンドリンが流れ、リュシェンヌ・ドリールは甘く切ない声で歌いだす。
♪ 眠る街に 風がささやく ♪
♪ 恋の思い出に 私はひたる ♪
♪ たった一人の友 赤いお月さま ♪
♪ 話してほしいの あの人のことを ♪
(演奏)
♪ーーーーーーーーーー
♪ ああ ルナロッサ 夜の女王様 ♪
♪ 空高く微笑む 夜の女王様 ♪
♪ 私の大好きな あの人のところへ ♪
♪ この愛の調べを 運んでほしいの ♪
♪ ルナロッサ 教えてほしいの ♪
♪ 彼の愛が いまでも変わりないか ♪
♪ ルナロッサ あの優しい彼は ♪
♪ 今頃どこに いるのかしら ♪
♪ 今夜もあの人は どこかの窓から ♪
♪ わたしと同じ月を 眺めているかしら ♪
♪ 赤い月の女神様ーーーー♪
♪ 赤い月の女神様ーーーー♪
日本語のシャンソン
「ルナロッサ」を聞いて数日たったある日、物語性のある日本語のシャンソンを作りたくなった。
箱型ピアノを買い、バイエル、ツエルニーを習い、紆余曲折あったが、ジャズの和音進行を学んだりして、曲の作り方を少しづつ学んだ。
あなたのメロディー
NHKテレビで「あなたのメロディー」という、一般の人が作った作詞作曲を応募できる番組があった。
「枝豆哀歌」「ゴリラのゴン太の場合」
ぼくは「枝豆哀歌」というワルツを作って応募してみた。
なんと、採用され、オーケストラをバックに二期会の友竹正則さんが歌ってくださった。
感激した。
数か月して、今度は4分の4拍子の「ゴリラのゴン太の場合」を応募してみた。
これも採用され、フィンガーファイブグループが歌ってくださった。
審査員の高木東六さん、詩人の高田敏子さんが褒めて下さったことを覚えている。
すべて若かりし頃の懐かしい思い出だが、心に響く「ルナロッサ」はぼくの人生を変えるほどの力があったことを、改めて痛感した。
後期高齢者になった今、まだ作ったことのない、切ない大人の恋歌にいつか挑戦してみたいと考えている。さて、どんな、恋がとびだすのやら。