竹崎季長(たけさきすえなが)の活躍
モンゴル族を統一したチンギスハン(元軍)は、その後、西は中央アジアからヨーロッパに進出し、ドイツやポーランド軍を破った。そして、アジアの大部分を支配して広大な帝国をきずいていた。
帝国の五代目のフビライは日本に対しても何度も使者を送ってきて元に服従するようにせまった。
鎌倉幕府の執権となった若き北条時宗はフビライの要求を断りつづけた。
文永の役(文永の戦い)
しびれを切らしたフビライは1274年、元と高麗軍3万の兵で博多(福岡県)に攻めて来た。
日本軍は、蒙古軍の集団で戦う戦法に慣れていなかったのと、撃ち込んでくる多くの鉄砲に苦戦していた。
肥後(熊本県)出身の竹崎季長は五騎の部下を従え、先がけを買って出て大手柄をたてた。その勢いで攻撃を仕掛け、その後、暴風雨が吹き荒れたことも味方して、蒙古軍の船は退散するしかなかった。

(2023.7.27想像図)
弘安の役(弘安の戦い)
1281年、フビライは今度こそ日本を降伏させようと14万の大軍を日本に送ってきた。
幕府は二度目の蒙古襲来にそなえ、準備をととのえていたが、大軍に苦戦した。
またもや、竹崎季長は小舟を出して、蒙古軍の船に乗り移り、たくさんの敵を倒して先陣をきり、攻め立てた。またしても(運が良いというか)、凄まじい暴風雨が吹き荒れ、蒙古軍の相当数が海の藻屑と消え、残りの軍船は引揚ざるを得なかった。日本は二度目の危機を乗り越えたのである。
(下はあっぱれ日本男児・竹崎季長の緊張した晴れ姿)

(2023.7.27。想像図)
蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)
竹崎季長は鎌倉幕府に仕えた肥後(熊本県)の御家人である。
季長の活躍を描かせた「蒙古襲来絵詞」は当時の戦いを知る貴重な資料である。
国立国会図書館デジタルコレクションで①巻~④巻までを誰でも閲覧することができる。
鎌倉幕府、滅びる
二度の蒙古襲来で鎌倉幕府は経済的にも疲弊を極め、御家人たちへの手当てもままならなかった。多くの御家人たちが幕府にそむき、後醍醐天皇に味方し、倒幕にむかったのである。
竹崎季長の誉と八百万の神様
それにしても、竹崎季長の活躍や、二度の暴風雨というラッキーも功を奏したことであるが、もし竹崎季長のような武者がいなかったら、それに二度にわたる暴風雨がなかったら、今頃、「モンゴル領日本」になっていたかもしれない。