化粧坂(けわいざか)切通し

(化粧坂切通し。2003.10.6スケッチ。鎌倉幕府が攻撃を防ぐため丘などを切り開いた当時の通路。)
ぼくは2003年9月29日、稲村ケ崎公園で江の島、富士山をスケッチした。
その時、新田義貞が鎌倉幕府を倒すときに稲村ケ崎で足踏みしたことをあらためて知った。どうやら、ぼくの頭の中で、鎌倉幕府が滅んだ頃の歴史的状況が見えていないらしい。そこで、当時をすこし整理してみることにした。
幕府の当時の状況
①当時、鎌倉幕府は二度の蒙古襲来で経済的損失を負っていた。
②幕府の執権、北条高時は政治に関心がなく遊び暮らしていたといわれる。
③手当の少なかった御家人(契約武士)たちは不満をもって幕府を見限るようになっていた。
④幕府の許可なしに何も決められなかった後醍醐天皇は幕府を倒そうと考えるようになった。
⑤後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王は幕府を倒そうと全国に挙兵を呼びかけ、幕府と長期にわたり戦っていた。
⑥幕府は内乱をしずめようと足利尊氏を大将にして京都に大軍を送った。
⑦尊氏は、後醍醐天皇を倒しに京都に向かったものの、途中で、自分が将軍になりたいと心変わりして、後醍醐天皇の呼びかけに応じ、幕府にそむいた。
新田義貞
⑧源氏出身の新田義貞も幕府にそむき後醍醐天皇側について幕府と戦った。
⑨新田軍は、鎌倉稲村ケ崎まで攻めた際、目の前には断崖、海側には幕府の軍船で身動きがとれずにいた。そこで持っていた名刀を海に沈めて天子様に祈ったら、潮が引いて、軍船は退き、鎌倉を攻めることができたといわれている。(ちょうど干潮時になった、つまりラッキーな自然現象が起きたのではないか。)
大正時代の尋常小学校6年生の唱歌「鎌倉」に{七里ガ浜の磯づたい 稲村ケ崎名将(新田義貞)の 剣投ぜし古戦場}の歌詞があり、当時歌われていたという。
⑩新田軍は2003年10月、ぼくがスケッチした化粧坂切通しや釈迦堂切通しなども攻めて本陣に迫ったのではないかと思われる。
釈迦堂切通し

(2003.10.6 釈迦堂切通し 現在は崩落のため通行禁止だそうである。)
静まり返った切通し手前でスケッチしていた時、向こうから、鎌倉時代の服装をした、馬に乗った武士、農民、商人、女、こどもが、こちらへ向かって来そうな錯覚にとらわれた。釈迦堂斬り通しは、そんな不思議な雰囲気の場所だった。
鎌倉幕府滅びる
山に囲まれ、防戦一方だった幕府、北条一族と家来たちは敵に囲まれ逃げ場を失った。
そして、新田義貞は、北条高時、家来たちに自害を迫ったのである。

(2023.7.27)
調べるほどに悲しくなるのは何故
かくして、鎌倉幕府は滅びた。
まさに、時代に翻弄された人たちの結果と言えばその通りですが、調べれば調べるほど悲しくなってくるのは何故でしょうか。